東武野田線の大和田駅を出て、踏切を渡ったくらいで通り雨に打たれ、心もとない折り畳み傘を片手に駆け込むようにお店に入った私を「あらあら」「よくいらっしゃいました」といった様子で、笑顔で迎えてくれたお二人。シックな装いが似合うご夫婦が、カウンターの向こうでドリンクをつくる姿を眺め、店内を流れる穏やかなピアノの音色を聴きながら、チーズケーキとコーヒーをいただく。本を読み、大きな窓の向こうでだんだんと空が明るくなるのを眺めているうちに、すっかり心が落ち着いていく。初めてお店に伺った日の居心地のよさを伝えるなら、こんなふうになる。
『ふらっと立ち寄れる場所がある日常を』がコンセプトの「BASHO COFFEE(バショコーヒー)」を営むのは、“みつさん”こと多田満寿(ただみつとし)さんと、“あやさん”こと多田綾子(ただあやこ)さんご夫婦。以前は、全国に拠点を持つ家具・インテリア企業に勤めるみつさんの転勤に合わせて居住地を移す生活だったという。関東圏内の本部勤務が決まったことをきっかけに見沼区大和田に居を構え、2025年1月にみずからが暮らすこの街にお店をオープンした。
目次
カフェはあくまで手段。場所をつくりたかった

オープンから1年が経つ今、新しいお店ができたと聞きつけ訪れる方はもちろん、リピーターの方も徐々に増えてきた。私が足を運んだ日も、お目当てのケーキの焼き上がり時間を尋ねて「その時間にまた来るね」と、慣れた様子で店を後にする方を見かけたほど。
あやさん:都会的な外観に惹かれて若い世代の方が見つけてくださったり、家族連れや、70代、80代とご年配の方もいらっしゃって、当初想像していた以上に地域の方に来ていただいています。本当にありがたいです。
こう話すあやさんは、みつさんの仕事に付き添う形で全国を巡りながら、大手のコーヒーチェーンで働いた経験を持つ。ならば、お店を持つのが昔からの夢だったのかと尋ねれば、そうではない。

あやさん:カフェをやりたいというよりは、場所をつくりたかったんです。コロナ禍を機に、散歩をすることが増えたのですが、思っていたより休憩する場所が少ないと感じて。ましてや、どんどん気候が極端になったいま、夏は暑すぎて冬は寒すぎて、ずっと歩いているわけにはいかないじゃないですか(笑)。そういう時に、ふらっと立ち寄れる場所をつくりたかった。場所をつくるのに、私にできることは何だろうと考えたら、15年以上携わってきたコーヒーなのかなと。
「バショプロジェクト」と名づけられたふたりの企画が形になったのが、このお店。立ち上げ当初につくったというコンセプトシートには「お散歩の目的地にも、経由地にもなる場所。そんな場所が日常にある幸せを、より多くの人と共有したい」と素直な思いがつづられている。
転勤続きの経験で感じたこと
「場所をつくりたい」その思いには、地元北海道を離れ、石川、広島、鳥取と居住地を移した経験から、なじみのある場所が少なかったことも影響している。
あやさん:実家は遠いし、昔からの知り合いはいないし、最初は場所を移すたびに知り合いがいなくなる寂しさも大きくて。だからこそ、ほっとできる場所がほしかったのだと思います。
実体験から「ほしい」と思った場所を、みずから「つくる」と決めるまでには、かなりの距離があるようにも聞こえる。きっかけは、40歳という節目を意識した時だった。
あやさん:40歳って、20年前はハタチで、20年後は還暦なんですよ。それってもう、衝撃的で! ありきたりかもしれないですが、人生短いぞって思ったんです。2人家族ということもあり、これから先の人生、自分が本当に心が動くことや他者に貢献できることって何だろうと真剣に考えました。 ハンドメイド雑貨をつくってイベントに参加してみたり、町おこしの地域団体の説明会に参加してみたりと、地域とつながるすべを模索した時期もありました。でも、どれもしっくりこなかったんです。そんな時に、散歩をしながら「ふらっと立ち寄れる場所があったらいいのに」と思って、これだ!と。

「これだ!」とあやさんがひらめいたその頃、みつさんは会社員として忙しい日々を過ごしていた。さぞや驚いたのでは? と尋ねたところ「大賛成でしたね!」と、こちらが拍子抜けするほど軽やかな返事が返ってきた。
あやさん:ね。夜、会社から帰ってたタイミングで「私、決めた」って言って。そしたら「いいんじゃない」って。そんな感じでした。
みつさん:そうですね。僕自身も、40歳を超えて、このまま会社で頑張っていくのか、別の道を進むのか、ネクストステージを考える時期だったんです。さらにそのタイミングで体調を崩してしまって、手術を経験したんですね。このまま会社員を続けても、本当に好きなことはできないんじゃないかと。
「思いがあるなら、動いたほうがいい」。あやさんの考えにひとつ返事で賛同し、みつさんは会社を退職。今までできなかったことを、とまずは夫婦で国内を巡る旅に出る。
旅先で見たその土地の日常
おふたりの共通点は、旅好きであること。みつさんの退職後、お店をオープンするまでの期間に、今まで訪れたことのない土地を巡り、47都道府県を制覇した。てっきりあやさんが引っ張っていくのかと思いきや、「僕がとにかく旅好きで、なかば強引に連れ回しているうちに、旅好きにしてしまった感じがあります」とみつさん。日本国内、なかでも島が好きだというおふたりにその理由を尋ねると「生活感」だという。
あやさん:そこに住む人の暮らしが見えるのが好きです。幸せそうな人を見ると、泣きそうになるくらい。

ちなみに、日本人が国内の宿泊旅行に行く平均回数は、年に2.26回。コロナ禍を経てその価値は変化したとはいえ、たまの気分転換や、非日常を「旅」に求める人がほとんどの中「ちょっとお邪魔しにいく、みたいな感覚なんです」と話すふたりの旅スタイルからは、日常の延長に旅があり、その土地の人々の暮らしを大切にしているのが伝わってくる。
みつさんに一番印象的だった旅先を聞くと、小笠原諸島と答えてくれた。東京の港から、ほぼ週1の定期便の船に乗り、片道24時間かけてたどり着く島。「移動は全然苦にならないですね」「旅先での運転もほとんど僕で、計7,000〜8,000キロくらい走ったかな」と穏やかな調子で話すのを見ていると、控えめな佇まいの内側に、変化や移動を臆することなく受けとめる度量の深さを感じずにはいられない。おふたりから感じる心地よいエネルギーの源はこうした物事への姿勢からきているのかもしれない、と思わされる。

「ふらっと立ち寄れる場所」だからできること
店名でもある「BASHO(場所)」には、“寄り道”や“中間地点”といった意味合いも込められている。「サードプレイス」に始まり、「居場所」や「場づくり」を連想したことを伝えると「そこまでたいそうなものじゃなくていいと思っているんです」とあやさん。
あやさん:ふらっと立ち寄って、ひとこと、ふたこと言葉をかわして、前向きな空気に触れたら、トゲトゲしていた気持ちが落ち着いて家に帰れる。そんなカジュアルな使い方をしてもらいたいと思っています。
みつさん:朝起きて、寝巻きのまま来てもいいよってくらいが理想ですね。

メニューはエスプレッソコーヒーをはじめとするドリンクを主役として、素材の味わいを大切にしたスイーツがそれを引き立てる。ランチメニューを期待する声がある一方で、「ふらっと立ち寄る場所」というコンセプトを考えると、休憩にちょうどいいスイーツや、ワンハンドで食べられるおやつに限りたい。

カウンターで顔を合わせて、コーヒーを待つちょっとした時間に雑談をし、またお散歩に戻っていく。あるいは、朝起きたままのスタイルで、目覚めのコーヒーを飲みにいく。できごととしては確かに「コーヒーを飲んだ」なのだけれど、何気ない人との会話や、相手がいるからこそ生まれる“思いがけなさ”、によって体温がちょっと上がるような経験、誰しもあるのではないだろうか。それくらいの軽やかさが、BASHO COFFEEには似合っているのかもしれない。
あやさん:ふらっと入りやすいような雰囲気づくりを心がけています。店舗自体の佇まいだけでなく、私たちのコミュニケーションの取り方や雰囲気についても、ポジティブで明るくありたいと考えているんです。初めてきた方にも、常連さんにも、フラットに。プレッシャーを感じすぎずに自分に立ち返る場所になっていたら嬉しいですね。
これからのバショプロジェクト
今後について聞くと「ふらっと立ち寄れる場所」をもっと増やしていきたい、とおふたり。「大和田だけでなく、他の地域にも貢献できたらという思いがあります」。つまり、バショプロジェクトは、現在も進行中ということ。「今はまだ、お店のことで手一杯ですが、同じ思いを持つ人たちを育てて、拠点を増やしていくような想像もしています」。
旅好きのふたりの間で「旅に行きたい」という思いも変わらず進行中だ。ゆくゆくは、旅先で見つけた伝統工芸品や、おすすめの品をお店に持ち帰り、ポップアップショップを開きたいという。散歩の途中、遠く離れた土地のものに思いがけなく出合えたら、ますますふらっと立ち寄りたくなるに違いない。

あやさん:転居や移動が多かったからか、ずっとふたりきりで生活してきた感覚がありました。でも、自分の思いに気づいて、実際に動いて、場所をつくったからこそできた人間関係によって、世界がグッと広がった気がするんです。そんな今がとても豊かです。
みつさん:ふたりとも、人と関わるのが好きなんです。会社勤めのときは人付き合いの範囲が限定されることが多かったんですが、今はお店によって人が巡っていく感覚があります。
個人的に胸打たれたのは、おふたりが大切にしている「楽しく明るく元気に生きる」という、スローガンのようなもの。純度100%のポジティブワードのようで、実は「自分たちの領域をちゃんと守りたい」という意思も込められている。人のネガティブな感情を受け取りすぎてしまう繊細さを自覚しているからこそ、意識して、できるだけネガティブが続かない選択をしていこうーー楽しく、明るく、生きていこう。店内を巡るポジティブな空気や、ちょうどいい距離感ともつながっているようで、とても好きだ。
かつて自分がほしいと思った場所をつくると決めたあやさん、そしてその思いに軽やかに応えて並走してきたみつさん。現在進行中の場所づくりを、今後もお客さんとして“ふらっと”参加しながら見守りたい。


